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真珠湾攻撃のニュースを聞いた当時の日本人は、どのように反応したのか?

本記事では、日米開戦が確定した真珠湾攻撃当日の1941年12月8日、ニュースを聞いた当時の日本人はどのように反応したか、どのような思いを抱いたか。当時の知識人や著名人50名以上の反応を抜粋してまとめた本の紹介をする↓。

あの日、日本人は戦争をどう感じ、何を考えたのか?当日の知識人・著名人の日記、回想録から偽らざる戦争の実感を甦らせる。

意外にも真珠湾攻撃に狂喜した日本人

まず本書を総覧して言えることは、当時の日本人は概ね、真珠湾攻撃&日米開戦を知るや狂喜に沸いたという意外な事実である。

・嬉しくて思わず涙ぐんで動けなくなった。

・気づいたら万歳と大声で叫んでいた。

・無限の感動に打たれた。

・もの凄い開放感を感じた。

など、本書を読むと異常なまでの興奮と高揚感が伝わってくる。

アメリカの国力は当時の日本でも知られており、日本とアメリカが戦争を起こせば結末はどうなるか想像がつきそうなものであるが。。。

しかも、これら手記を残したのは錚々たる昭和の知識人たちであり、そんな彼らをしてこのような感情に駆り立てた駆動力とは何だったのだろうか?

当時の日本人も、なぜ狂喜が起こったか理解できなかった

驚くべきことに真珠湾攻撃に狂喜した日本人達は、自分達でもなぜ狂喜しているのか明確には理解できていなかったと思われる。

前述のように喜びの感情を手記にぶちまける知識人であったが、具体的になにを嬉しく感じたのかが手記から読み取れない。全般に共通して見られるのは、言うなれば「言語化できない衝動的な喜び」であって、第三者にロジック立てて説明できるような感情ではない印象を受けた。

そんな狂喜の感情の源泉は何処にあったのだろうか?

うっぷん晴らしが出来たのが嬉しかった?

本書を読み進めると、所々に「ペリー提督に武力でもって日本を開国されたことへの報復」、「(満州事変以降に)アメリカから受けた脅威」に関する記述がある。

当時の日本は帝国主義的な姿勢をアジア諸国に取り続けた結果、ABCD包囲網や排日移民法に代表される国際的な圧力を受けていた。この手の圧力はアメリカを中心に画策されたものであり、当時の日本人たちは屈辱感を感じていた。

排日移民法に反対する日本人

在日アメリカ大使館前で起こった排日移民法への反対デモ

しかしながら、そもそも日本が帝国主義の道をひた走ることになったきっかけは、アメリカのペリー提督が同じく帝国主義的な武力の威圧により日本を無理矢理に開国させたことに端を発する。アメリカという国は当時の日本人にとってみれば、独善的に映ったのだろう(これは今もそうであろうが)。

そんなアメリカの艦船を一網打尽にした真珠湾攻撃のニュースを聞きつけ、日本人は「してやったり!」と喜びを感じた一方で、アメリカほどの大国相手に戦争を起こしてしまったことに対し(少なくとも無意識レベルで)危機感を感じたはずである。

これらの感情が混ざり合い、得も言われぬ興奮感情として昇華されたのだと解釈すれば、当時の日本人の反応もある意味自然なのかも知れない。

真珠湾攻撃に絶望した日本人の紹介

最後に真珠湾攻撃の知らせを受け絶望に打ちひしがれた日本人として、本書に記載のある岡本太郎(芸術家)を紹介する。

1970年開催の大阪万博における「太陽の塔」の製作者として名高い岡本太郎だが、彼は日米開戦前に10年間ほどフランスのパリに滞在歴のあった国際派であった。

開催期間中の会場風景。中央に太陽の塔を望む。

彼は真珠湾攻撃と日米開戦の報を受けて、「まさか・・・」と絶望した。日本がそれまでアメリカに強硬姿勢を取っていた本来の動機は、あくまでアメリカとの交渉で譲歩を引き出す為であり、実際にアメリカと戦争をするためではなかったはずだ、と日本の当時の国家戦略を正確に捉えていた。

しかし、このような日本人は稀な存在であり、本書に出てくる知識人たちの中でも明らかな少数派である。大多数の日本人は知識人も含めて感情に流され、真珠湾攻撃に熱狂していた。

そんな日米開戦当初の日本人の反応を知る上で、本書は貴重な資料であった。

今回はここで終わりにします。

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